ゆとり大学院生の日常~なんかいいことないかな~

留年と隣り合わせの情報系大学院生の日常。

「勉強は贅沢である」ということを考える

先日、林修先生が言っていた 「嫌ならやめなさい。勉強は贅沢なんだから」 という言葉をみて 最近同じようなことを考えていたので書いておきます。

学生が意識しづらい事実

こういう事実というのは、 社会的には当たり前のことだけれど学生の立場からは意識しづらい事実であると思います。

というのも、今の時代教育制度が確立されており、国や両親が教育に対して投資してくれます。 その国や両親の学業への投資を受けて学校の先生もまじめに教育を施してくれます。

そのような背景から基本的に多くの学生は学業に専念することができます。 (中には自分で生計を立てて学業をこなしている凄い人もいるのですが・・・)

なので教育というものは社会から 「与えられるもの」 だと認識している人が多いと思います。 実際、高校生ぐらいまでに接する社会というものは「家庭」と「学校」になるので そのような認識を変えるきっかけというものはほとんどありません。

社会の風潮として、「大学全入時代」と謳われる現在において、 大学に入ること自体もいわば「与えられるもの」となっています。

「勉強できることは恵まれている」と考えるきっかけとなったこと

生計を立てながら勉強をする学生

僕は裕福ではありませんが、勉強をしたいと求めればさせてくれるぐらいの 金銭的余裕はありました。

しかし、前述したように家庭の事情で学業に専念できるだけの経済的余裕のない学生もいます。 そのような学生が自分で学費を捻出しながら大学に通っている姿を見たことが自分が恵まれていると思ったきっかけです。

研究という未知なものに対するアプローチ

今までは受験、または単位を取るためだけのいわば答えのあるテストにどのようにしてアプローチするかでした。 しかし、研究に関してはその分野で誰もやっていないことをしなければならない、つまり答えのない問いに対して どのようにアプローチするかというものに変わりました。

当然自分がどの程度能動的にやるかによって進捗は大きく変わります。 また指導している教授陣も今までは授業でしか接したことがありませんが、その道ではスペシャリストです。

僕なんかが及びもつかない発想、膨大な知識、経験による知恵などまさに超人です。 こんな人に指導を受けれることは本当に恵まれた環境であることを痛感しました。

高校時代の先生もすごい人がいたはずなのに認識できなかっただけであると思いますが。

社会人ドクターの存在

社会人ドクターという存在をご存知でしょうか?

社会人ドクターとは、社会人に対して特別枠として会社で働きながら博士号を取得できる 大学院のプログラムです。

僕の研究室にも在籍していますが、 僕自身が研究室に配属されるまでそのようなポジションの存在は知りませんでした。

社会人になってからわざわざ大学院に戻って研究しようとする人がいることに衝撃を受けました。 しかも会社に通いながら・・・

社会人ドクターの人曰く

修士のときに勉強に熱心でなかったことに後悔している。 時間も若さもあったころに研究や勉強に熱心であるべきであった」

そういう話はインターネットなどでみてはいましたが実際の声をきいたことで考えるきっかけとなりました。

最後に・・・

自分はこの時間に余裕のある学生時代に遊んでばかりいていいのかと考えることが増えました。

学生時代の過ごし方としては、実際すでに社会人になった先輩方に社会に出る前の「最後の夏休み」だし、めいっぱい 遊んどけよ。と言われ続けてきてこれが僕にとっての標準的な考え方でした。

しかしながら勉強に対して後悔をもって再び勉強する環境に身を置く人もいることを知れたことは 僕自身がいまだ学生のうちに知れてよかったと思いました。

林修先生の言うように「勉強」というのは贅沢であると。 親に高い学費を払ってもらい、勉強をするという条件で労働を免除されているということが モラトリアムの意味です。

親自身も子供のことを思って身銭を切って投資してくれています。 社会人ドクターのように自分で学費を払い、仕事の合間を縫って 勉強する人、大学院に行かずとも仕事も合間を縫って資格勉強など自分の キャリアアップに向けて研鑽する人と比べれば、学生とはなんと恵まれていることでしょう。

林修先生の言うように 勉強は贅沢です。やめたければやめればいい は紛れもない事実です。

確かに勉強は昔やらされているように感じていましたが、 両親が僕自身が社会に出るときの選択肢が多くなるように 社会に出るときに苦労しないように幼いころから 投資してくれていたことは忘れないようにしたいですね。